かどや in the corner of the management department 

内部監査に辿り着いた、光を反射しない鈍器                

ミステリーの舞台としての多摩

 今回は仕事を離れたエントリー。

1 舞台選びの妙 

「刑事の境界線」(宮島明道著 宝島社文庫)を読む。

 著者は東京都立川市在住らしい。小説の舞台は東京都小金井市、国分寺市、小平市である。

要するに東京郊外、自分の生まれ育った北多摩エリアである。

 東京区部に住む方にとっては中央線吉祥寺駅の先など「地名をいわれてもどこかわからないし、そもそも用事がない」という存在だろう。

このエリアに生まれ育った自分はまずその舞台設定ににやりとせざるをえなかった。 

 近年、多摩エリアをミステリーの舞台に選んだ作品が増えている印象がある。それも「多摩ニュータウン」などといったわかりやすい地域ではなく、今作のように「住民でなければわからない」普通の住宅地である。

例をあげれば、

①長沢樹 ダークナンバー (ハヤカワ文庫JA)

②高村薫 我らが少女A

③吉川英梨    新人女警 (朝日文庫)

これらに共通するのは、「絶妙に微妙な地域選び」と「路地一本も見逃さないロケハン」である。①は小平市を流れる用水の暗渠②は調布市、小金井市、府中市、三鷹市が入り組んだ宅地、③は中心街から少し外れた八王子市が描かれる。そして作家たちは多摩どころか東京出身ですらない。

多摩のどこが著名なミステリー作家をひきつけるだろうか。

2 郊外、ベッドタウンで括れない多摩

 東京郊外、ベッドタウンと大雑把に括られてはいるが多摩地域は何層にも重なった要素で成り立っている。自身の記憶や祖父母の世代から聞いた話からまとめるとこんなものになる。 

 ①江戸時代の新田開発期から続く旧家

 ②明治期以降に移住した住民層

 ③帝都東京を支える軍都多摩とその関係者

 ④養蚕と養蚕研究などの旧農林省関係者

 ⑤ハンセン氏病や結核、脳神経系の医療機関

 ⑥③の軍用地の跡にたつ国立公園、官庁系機関、企業の工場やその関係者

 ⑦同上、福祉施設とその関係者

 ⑧昭和30年代以降の高度成長期に移住した住民層

 ⑨平成期に①の何代目かが相続で手放した土地に建つ建売住宅を購入した層

 まだほかにもあげるものがあると思うが、これほどの要素が相互に関連することなく存在する。

 ⑨の住民が①の歴史や事情を知る由もなく、人から教えられない限り③④の面影を探すことは難しい。ほとんどの住民は自分が居住した時期以降の風景しかわからない。

 この道路はなぜここで途絶えてしまうのか、なぜこの場所には国立の機関や施設が多いのか。ふとした機会に一瞬違和感を覚える人が少しいる程度だろう。

3 ロケハンの先に

 しかしそうはいっても東京のベッドタウンである。ミステリー読者は多いはずである。いい加減な街の描写をすれば即座に「嘘くさい小説」と批判されるだろう。だからGoogleストリートビューには絶対に映らない路地や暗渠を描くために執拗なロケハンを行ったのではないか。

 さて嗅覚の鋭いミステリー作家はロケハン途中にどのような違和感を抱いただろうか。層を一枚か二枚めくってみたか、そこに何を見つけたか知りたい気もする。

 

 

 



 

 

善と悪と弱と

 法務部門から内部監査部門に移り数年が経過するが、法務などの管理部門(第2線)と第3線の視点が重ならないと感じる機会が年々増えている。

おそらくこんなことなのだろうと思うことを書く。

1 日本的コンプライアンスの落し所としての「性弱説」

 企業法務、コンプライアンスの文脈で「性弱説」というワードが登場してきたのはここ10数年のことと認識している。
歴史的、学術的な背景をもつ「性善説」と「性悪説」の狭間で生み出された「性弱説」が、日本企業において受け入れられている(少なくとも否定はされていない)のは、日本的な共同体意識や情緒に配慮した「政治的・文化的な落としどころ」だからではないか。

 伝統的な日本企業において、メンバーを「泥棒」扱いする性悪説(X理論)の導入は、日常的な現場のマネジメントがたとえ「性悪説」であっても、管理部門などから面と向かって唱えられれば心理的抵抗が強すぎて組織の拒絶反応を引き起こす。一方で、不祥事が多発する現実を前に「従業員を信じる」という性善説(Y理論)のままでは、市場や世間を納得させることはできない。

 不正のトライアングル」論をベースに「人間を悪者にしたくない(善であってほしい)」という日本的共同体の身内への期待(願望)を残しつつ、「しかし、仕組みによる統制は必要である」という外圧的なガバナンス要請を両立させるためのウルトラC、それが「性弱説」ではないか。

2 皮肉にも、第2線・第3線こそが「性弱説」のトラップに嵌まる

 第1線の現場の「弱さ」を救い、コントロールするために導入したはずの「性弱説」というOSの上で、それを運用する第2線(法務・リスク管理・総務経理)や第3線(内部監査)自身が、最もその「弱さ(トラップ)」に絡め取られていないか、絡め取られるおそれはないだろうか

  • 第2線側の「弱さ」の露呈: 現場の複雑な業務プロセス(環境)を泥臭く紐解き、現場が気づかないうちに正しい行動を選ぶ「ステルスなアーキテクチャ(事前管理)」を設計することは、知的にも時間的にも極めて負荷が高い作業である。
  • 安易な環境への逃避: 第2線側の人間に業績や再発防止のプレッシャーがかかったとき、彼らはその「きつい仕事」から逃れ、デスクの上だけで即座に免責と達成感が手に入る「規程の厳格化」「罰則の強化」「誓約書の徴求(事後管理・アリバイ作り)」という、(自分達にとって)安易で楽な選択肢へと容易に流されてしまう。

 「人は楽な方へ流れる、誘惑に負ける」という性弱説の定義そのものを、「現場を取り締まる側の人材が、デスクの上で体現している」という構図はないか。本社管理部門一筋であったり生真面目な叩き上げのような人材ほど、この「統制という名の自己満足(楽な仕事)」の誘惑に絡め取られていないだろうか。(そして本人はこれを「楽な仕事」を選んだとは露にも思っていない)

3「重ならない感触」違和感

 企業法務部門は、制度という「枠組み(ドキュメント)」を作る性質上、この日本的な落としどころである「性弱説」を免罪符のように持ち出す。規程を作り、研修をして、「人は弱いから仕組みを作りました(だから守ってくださいね)」というのも、一種の性善説的な運用の期待(甘え)といったらいい過ぎか。

 しかし内部監査部門も他人事ではない。第2線の不備を突くことが内部査部門の「安易な正の強化」になりかねない。内部監査部門が「正義の味方」として振る舞えば、こちらもまた形を変えた性悪論の連鎖を繰り返す当事者であり、「正義の味方となる」誘惑に絡め取られた弱者にほかならない。

 真に自覚的な内部監査(第3線)が立つべきは、この「落としどころとしての(甘い)性弱説」をも突き崩す、徹底して冷徹な分析の目なのではないか。



与信管理が変わる?というよりも通用しなくなるという話

久々に法律まわりの話題 

 新しい法律が施行されると、業務の何かが変わる。そういう機会に立ち会うたびに思うのは、「変わる」という言葉の微妙なずれだ。変わるのは法律の側であって、こちらはただ、それまで通用していたやり方が通用しなくなるだけだ。

 先日施行が近づいてきた動産担保まわりの新法制を確認していて、そのことをあらためて感じた。与信管理の話である。

 これまで企業が与信管理のよりどころにしてきたのは、まず信用調査会社の評点と、販売部門が現場感覚で集めてくる「情報」だ。どちらも有用であることに疑いはない。ただそれは、与信管理のしくみとしてではなく、担当者の経験と勘とそして管理部門の事務能力でうまく機能してきた、という側面が強かっただけかもしれない。

 新法の規定によって、売掛先も買掛先も「担保」をめぐってこれまでとは異なる動きをするようになる。自社の取引金融機関も、普段は販売先である商社も「担保」という観点では競争相手になりうる。そして彼らはこの手の保全において、中堅製造業よりはるかに手慣れている。

 新法施行時期は明らかになっている今、信用調査会社のスコアと現場の感触を頼りにした与信管理が、果たして「管理」と呼べるかどうか。そして管理部門が新法を使いこなすことができるか。

 内部監査として担当部門に問いかけるとすれば、まず「貴部門の与信管理の方針は何ですか」ではなく、「法制が変わった後も現在の業務手法は有効と考えますか」という問いになるだろう。今の時点で答えが出なかったとしても、問いかけること自体に意味がある気がしている。

 法律が変わるから与信管理が変わるという話ではない。管理部門が能動的に時代に相応わしい与信管理の仕組みに作り変えることができるのか、新法施行をきっかけに可視化されるのではないだろうか。

 自分としてはこれまで辞書のように使ってきた『与信管理論』(商事法務刊、現在は第3版)の第4版が登場するのをひそかに待っている、というのが正直なところである。

 

キラキラとした皮肉


某ソフトウェアメーカーのCMを見ての感想


 過日通勤電車のなかで、よくできたCMを見た。「よくできた」というのは、映像がどうとかではなく、ターゲット設定が、という意味で。

 誰もが毎日一度は何らかのかたちでお世話になっているであろう、あのソフトウェアメーカーのCMだ。今風のオフィス。中間管理職らしき人物が若手に複数の文書をドサッと渡して言う。「ガラポンしてちゃちゃっとA4一枚にまとめて」。若手は件のソフトウェアを使って、あっという間に仕上げてみせる。ふたりとも、にこやかだ。

 このCMが売りたいのは、生産性向上ではない。「今のまま」の延命だ。

「ガラポンしてちゃちゃっと一枚」を自分でやろうとしない管理職。それをこなして存在感を示そうとする若手。このソフトウェアを導入すれば、このふたつの役割を、もう少しだけ温存できます——そういうメッセージを、このCMは笑顔で発信している。

 ソフトウェアメーカー側だってわかっているはずだ。自社のサービスが目指す世界と、このCMの風景が真逆だということを。それでもこういう内容にするのは、導入の意思決定をするのが若手ではなく管理職以上だからだ。刺さる相手に刺さる絵を作っている。

 

 先日、ある報告資料を作成し、試しに生成AIのスライド機能に放り込んでみた。数分で、従来のパワポとは比べものにならないものが出来上がった。それをメンバーと眺めながら、「スライドを頼むだけの管理職も、作り込む担当者も、本当に存在感がなくなるね」と話した。笑いながら。笑うしかなかった。

 

 部門を問わず担当者の職務分掌表に「資料作成」という項目がある。あいまいに書かれたその欄に、どれほどの「ガラポンしてちゃちゃっと一枚」が潜んでいるか。内部監査の目で眺めると、その欄はずいぶん広い。そしてずいぶん、脆い。

 あのCMから皮肉と毒を読み取ったのは、考えすぎかもしれない。

 ただ、あなたの役割はまだ要ります、といってくれているのが、その役割を消しにかかっている会社だというのは——なかなか、商売上手な話ではないか。

 

形式的監査の記憶(最終回)

noteからの転載エントリー。

過去をくさすのは簡単だが、変えていくことは少しの勇気や覚悟がいる。
自分のやったことも瞬く間に過去になり、後の世代に批判され廃されていくだろう。
しかしそれが健全なサイクルなのだと思う。
そんなことを考えながら、それでも何か新しいことはしたいよね、と足掻く。

 

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形式的内部監査の記憶(2)

 前回同様、noteからのリンクパターン。

 野良の内部監査人とはいえ、ここまでいろいろと考えてきたのである。
 

 巷間されている形式的な内部監査というとチェックリスト方式がすぐに頭に浮かぶと思うが、内部監査の運営方法と無関係ではないだろう。

 社内の専門職部門の社員で構成する監査団方式は、内部監査の人員体制が十分でない(といっても、どうなれば十分なのか)ことをカバーする方法。

 物事には必ずメリットデメリット両方が存在するが、自分は監査団方式は運営主(内部監査部門長や監査リーダー)のコントロールの限界がデメリットだと思う。労務や経理部門の社員が相互に監査を行うことは遠慮や馴れ合いを招く。(資格の有無を問わず)職務として内部監査業務にあたる者とそうでない者の違いを埋めることはできないし、応援者を責めることはできない。

 監査件数や効率、質の向上と弱小監査部門の悩みは尽きないが、今は質の向上を優先させたという話。

 

note.com

形式的内部監査の記憶 (1)

いつもと逆パターン、note  からの転載エントリー。
老兵が周回遅れでバタバタ試しているということでご容赦願いたい。

 今でこそしれっと内部監査部門の長の顔をしているのだが、若い頃の仕事ぶりは褒められたものではなかった。それを棚に上げてのエントリである。当時の管理部門の人間から張り倒されるだろう。

 企業不祥事の調査報告書で内部監査の質を問われる記載が増えた。「形式的な監査に留まり云々」といった論調が多い。形式的とは何を指すのか。チェックリスト頼みのことかと考えていたのだが、それだけではないことを思い出したので記録してみた。
note.com