先日、地元の旧青梅街道沿いの床屋で散髪したときに近所の旧家の蔵の壁から穿り出されたという弾丸を見せられた。その店から直線距離で2Kmあるかないかのところに戦争遺跡旧日立航空機立川変電所(米軍から銃撃を受けた壁が遺されている)があるのだが、その旧家の古老がいうには日立航空機と同日に機銃掃射を受けたのだという。農村(当時)を狙ったということではなく流れ弾ということだろう。軍都の顔をもつ多摩ならではのエピソードである。
自分の世代(1960年代生まれ)だと、小学生の頃はまだ身近に戦地に赴いた大人がいたし、なかには実際に身体に重い傷を負った人もいた。近所の旧家の畑には防空壕趾があったし、前述の旧家のような話もある。また自分の親や親族も1945年3月の大空襲ではないものの都内で空襲をうけ、疎開を経験している。
1976年。
半世紀前の小学校の教室で自分が受けた教育は、先般の沖縄での「平和教育」での悲惨な事故と根っこにある教育思想は同じのように思った。
よくよく調べれば、担任教師の教育手法は当時の教員組合のある会派で確立されていた教育の一環だったようだが、そのなかでもやはり先頭に立っていたようである。記憶にあるのは国語の授業では教科書を使わず、独自の教材を用いて授業を行なっていたことだ。小学生の授業の教材に峠三吉の原爆詩集からの一篇を選ぶということは、今でもそうそうあることではないと思う。やや意図的なものがあったことは否定できない。ただ教室から離れれば、身近な大人から学校の授業とは異なる戦争の話をきくことができた。声高で頭デッカチな主義主張ではなく普通の人の肉声である。
81年前の記憶の承継のみで戦争を抑止し平和が訪れるとは思えない。
しかしイデオロギーのためのイデオロギーによる反戦、平和論に取り込まれないようにするには、市井の肉声を丁寧に拾うことが必要なのではないかと思う。
証言できる人に残された時間は非常に少ないが。
