かどや in the corner of the management department 

内部監査に辿り着いた、光を反射しない鈍器

10月の雨の夜に

たいした事をしているわけでもないのに疲れが溜まる、ここ数日はそんな感じである。

ひとつ歳をとった月なので、体調が変わるのかもしれない。年齢を考えれば仕方がないか。

 仕事は通常の業務監査の仕事に加えて、次世代育成というと大げさだが、業務マニュアルの再整備にとりかかっている。と、いっても内部監査の世界はフレームワークやCIAのテキスト、先達の手がけた書籍があるのでいちから考えなくても済む面はある。それらが描く内部監査像を最終的に目指すにしても、自社の現状に合わせた規定や手順にしていくことに時間がかかる。

 今の部署が内部監査という名称を名乗るようになったのは、実は自分が異動したときからでそれ以前もたしかに監査グループという名称ではあったものの、古いスタイルの業務監査で世間一般でいう内部監査業務とはだいぶ距離が開いていた。それを上場親会社の監査室の業務を参考にしながら可能な範囲で詰めているつもりではいる。しかしそれでは済まされない状況が近づいてきていることもまた感じている。次世代に仕事を譲るタイミングを考えると、やはりもう少し先の段階に進むための業務マニュアルにする必要があるのだろう。

秋の冷たい雨の夜の作業BGMにこのアルバムを選ぶ。

The Pearl

The Pearl

Amazon

 

 

 

 

 

 

 

自我とコミュケーションスキル

数日前に呟いたコミュケーションスキルの話。

 コミュケーションに苦手意識を持っていると、ひとくちにいっても事情は様々だろう。わかりやすいのは口下手で人前ですらすらと話すことが難しいというケースだが、口も筆もたつタイプなのに相手に伝わらないばかりか反発さえ受けてしまうので「苦手だ」というケースもあるだろう。後者のケースでは理解もせず反発をする相手側に問題がある、という人も多いのではないか。
法務、経理をはじめとする管理部門担当者と血気にはやる事業部門担当者との会話でよくあるケースだし自分も経験がある。どう考えても自分の方に理があるのにと、ストレスを抱える。

 何回も話題にするのも気が引けるのだが、ふた昔前にマネージャー研修の社内講師をしてきたときのカリキュラムに交流分析Transactional Analysis、以下「TA」)のエッセンスを取り入れた科目があった。もうひとつの研修科目の行動心理学よりも研修参加者の反応がよかったと記憶している。
 詳しい解説は検索していただくとして、TAでは人に対する言動や態度は自分の自我の状態から出るもので自我の状態とは5つの要因から成るがこのうち一番強い要因が言動や態度に出る、としている。5つの要因を簡単にいえば、「父親的・論理的・厳格(CP)」「母親的・情動的・慈愛(NP)
」「大人(A)」「自由な子ども(FC)」「従う子ども(AC)」といったところである。(自分がどのような自我状態か、というのは複数の質問に対する回答の分布を折れ線グラフで表記したエゴグラムで表される)

前述のマネージャー研修の参加者の多くは5つの要因のうちCPやAの傾向が強く現れていたが(そうでなければ困るのはたしかだが)、企業法務部門担当者は仮にマネージャーでなくても同様だと想像する。必要な資質であるし、そのような資質が強化される訓練を受けてきている。

ただ、リアルな会話だろうとメールやchatであろうとCPやAが強い自我からでる言動や態度とはどのようなものだろうか。腕組みをして眉間に皺を寄せながら「ルールに反します」「リスクが高すぎます」「あなたの気持ちは別にして」などといっているかもしれないし、chatで「NG、理由は何々」と短く返しているかもしれない。

間違ってはいない。ただ相手にも自分と同じCPやAが高い自我の状態を求めていないだろうか。ひいては「正論ハラスメント」に陥っていないだろうか。

 これも何度もいっているが自分(今は内部監査の立場)から見れば法務はビジネス部門である。事業部門の担当者のように切った張ったの商談をすることはないが、後方あるいは側面から、事業部門が道から逸れずに、そして余計なリスクを負わずに組織の事業目的を達成させるという役割を担っていると考えている。法務部門の言動や態度が原因で事業部門側が情報を隠すというような状況を作ってしまうのは避けなければならない。

 ではTAを具体的にどのように活用するのかというと、自分が担当した研修だと丸1日の講義と演習になる。検索なり生成AI で会話してみてほしい。

 法務や監査担当者はロジックの土台はできていると思う。ただ、それだけで他者に伝えたいことを十分伝えることは難しい。心理学的なアプローチを加えることで、自らの役割を果たすことができるのではないか、という話でした。

 

 

志と運用のあいだに

「志や目的が正しくても、運用を続けるうちに変わってくることはありますよね」

 これは一昔前、会務に参画している事業者団体の合併統合の作業を進めていた際、とある統計作業の可否の問い合わせに対する公取委の担当官の回答の冒頭にいわれた言葉である。続けて「こういうことがありますよね?そうなるとこうなりますよね?」(具体的にはさすがに書けない)とたたみ込まれ、こちらは「はい、承知しました」としか回答するしかなかった。そのくらい担当官は事業者団体活動の内情を知り尽くされていたのである。

 企業法務や調達部門の担当者が騒然とした某パブコメの一件である。
 改正下請法(取適法)の目的はおそらく正しいものなのだろう。しかし、あのパブコメの回答を読み進めていると、冒頭の話ではないが志の正しさを運用が実現できるとは考えにくい。大企業のように業務分掌が明確でなく総務も人事も経理もひとりかふたりで回している企業がすべての取引先から毎月毎回常時使用する従業員数を問われたらどうなるのか。従業員要件からみれば、発注者・受注者ともに同じような規模の企業間取引もあるのではないか。取引上の立場の弱い者を守る目的のはずがかえって逆効果になりはしないか。発注者側とて月々の資金計画に影響がでかねない。資金に余裕がある企業ばかりではない。当事者に負担を強いる運用方法は早々に穴があくものだ。

 そしてこのパブコメは、企業の管理部門、とくに業務規程やマニュアルを作成する管理部門の担当者の教材になると思う。「四角四面」「木で鼻を括る」と盛り上がって(?)はいたが、はたして我が身を顧みるとどうなのか。己の志や目的の正しさばかりを追いかけているようなことはないか。「本部の人はいいですよね。やれ、といってくるだけだから。」「こちらからの質問にちゃんと答えていただけないですよね。」当事者部門からこんな声があがるときには、もう目端のきく人間が運用面の穴を見つけているかもしれないのだ。

冒頭の担当官の話、口調は穏やかで柔らかかったと記憶している。しかしいまなお鋭く刺さったままなのである。

 

 

続 体力 生命力とは???

 前回エントリの続き;

 身内ネタを続けるのもあれなのだが。

 昨日老母が無事退院した。前回は手術当日夜の段階の記録だったが、それからほぼ1週間ちょっとで退院したことになる。前回エントリは手術が終わった当日の夕方までの様子であり、正直2、3日はベッドから動けないだろうと思っていた。が、翌日午後面会に行くと、もうベッドの上に起き上がっていて、先に面会に来ていた伯母(母の妹)と普通に会話をし、なんならトイレまで(病室内だが)自分ひとりで歩いていって済ませていた。伯母も起き上がっている姿をみて思わず「ええっ!!」と声を上げたという。以降、洗面もシャワーを浴びるのもひとりで済ませていたので、看護師や同じ病気の患者さんから驚きの目で見られていたらしい。元気ですね、丈夫ですね、と皆に褒められるので退院時には少し調子にのっていた感すらある。

 今回は本当についていたというのか、検査を受診してから手術終了までほぼ1ヶ月、退院までいれても1ヶ月半、これが当たり前と思ってはいけないのだろう。
体力の回復が順調だったのは、たとえゆっくりであっても2000〜3000歩/日のペースで歩いていたことと関係があるかもしれない。超高齢であっても毎日の繰り返し、積み重ねていることがあれば、それが自分を助けることに繋がるということか。

 盆休みから昨日まで慌ただしい1ヶ月半が過ぎ気がつけば10月。小さく息を吐く。

 

 

体力、生命力とは??

 身内の話をネタにするのもどうかと思うのだが、あえて書き残すことにした。

 老母(90歳)が入院、本日(9月22日)手術を行なった。病名は乳がん(ステージⅡ-a)。

先月盆休み明けに診断結果を一緒にきいたときに思わず「え?」と顔を見合わした。年齢的にがん細胞が活発に動くわけがないという思い込みがあったのだが、どうやら高齢者の乳がんは珍しくないらしい。診断結果をきいたのちにバタバタと精密検査を行い、がんのタイプや進行具合を確認、今月初旬に術式、治療法を決めた。
 まず高齢なので病院の方針として抗がん剤治療は行わない。がんのタイプが抗がん剤治療を前提とするものではなかったこともあるが、まずこれで少し安心する。術式の選択は本人、家族の意向に沿うとされたが、主治医からの説明もあり手術後の放射線治療を必要としないほうを選んだ。術後30日間欠かすことなく放射線治療をうけるほうが本人の体力を削る可能性があると考えたためだ。
 さて、ここで選んだ術式について近隣、親戚(母の妹たち、こちらも後期高齢者なのだが)などの界隈で、90歳という年齢でその術式を選べることに対してざわついたらしい。
要するに「体力がないと選べない」術式からである。傍目からみて本人はそんなに頑丈な体格ではない。昔話にでてくるような小柄な老婆そのものである。どこに体力が蓄えられているのか、どうやって蓄えてきたのか等疑問が尽きないらしい。
 どこかで90歳を超えるような人間は生き物個体としての生命力が強い、という話をきいたことがある。学術的な裏付けがあるのかまではわからない。そういわれてみれば母の高校時代の同級生も元気な方が多く、毎年春になると同窓会をやるのやらないと連絡があるらしい。強い生命体の集まりというのがあるかもしれない。

 さて本日の手術である。手術室にストレッチャーで運ばれるのかと思いきや徒歩で向かっていった。看護士いわく「お元気なので」(そんなことあるのか)

 オペ終了後。全身麻酔の後遺症の「せん妄」を本人が一番心配していたのだが、麻酔が醒めていくにつれいつもと同じような会話に戻る。挙句「退院は月曜日がいい」などと勝手なことをいっている。

 そうはいっても明日どんな状況になるかわからないのが高齢者。順調に回復したとしても術前と同じレベルまでは戻らないとこちらは覚悟している。あとどれだけ生命力を蓄えているのかわからないが、ぼちぼち、のんびりと過ごせるようにしたいと思う。
 

 

 

企業会計2025年10月号 特集を斜め読み

 企業会計10月号特集記事「ChatGPTと読む有報」を読む。

 2022年2月号で「テキストマイニングによる有報分析」という特集記事が組まれてから、わずか3年半ほどで「 ChatGPTと読む有報」である。業務でテキストマイニングのツールを使うかどうか周囲と話す間もないまま、もう世間は次の段階に進んでしまっているのか。

斜め読みでかいつまむ。

  1. 「生成AIが切り拓く有報分析の最前線ーテキストマイニングとの比較を通じて」(法政大学教授 坂上学)では、企業に関する定量情報、定性情報の両面についての生成AI分析には「有価証券報告書のPDFファイルが最適と結論づけられている。
  2. 「生成AIは有報をどう読んでいるのかー投資家にとっての新たな分析手法」(ニッセイアセットマネジメント(株)鹿子木亮紀)では、記事最後に「AIの進化によって開示当事者にとってもAIで読まれることを前提とした開示の設計をする必要が高まっている」とまで書かれている。(Web2.0時代のSEOを意識したWebコンテンツ云々を思い出す)
  3. 任天堂の時系列分析と自動車業界の企業間比較」(合同会社オントロジー代表稲垣大輔)ではハルシーションリスクやIR情報が少ない企業のインターネット情報不足リスクについて釘を刺している。

 企業の開示情報についてテキストマイニングと生成AIとふたつの方法による分析ができる時代を迎えたことはたしかである。

 特集記事は主に機関投資家を対象にしたものと思うが、企業の経営企画部門や事業部門の担当者も一読の価値があると思う。

 

 それにしても、2のような論評があると10年ほど前に東京阿佐ヶ谷のライブハウスで開催された「IRは文学だ」というトークライブがもう遠い昔話のようだ。あのときの特定界隈も生成AIを使っているのだろうか。

 

企業会計 2025年10月号

 

 

 

サイバーパンクな頃

 『ニューロマンサー』(ウィリアム・ギブスン 早川書房)が復刊した。早川書房80周年と初版から40年目が重なったようで、帯には「サイバーパンク再起動」と謳われている。

 まずあれから40年経つのか、と驚く。初版当時の1986年には読んでいなかったが実家にあった文庫本の奥付をみると1988年とあるので、サイバーパンクブームのさなかにミーハー的に読んだのだと思う。本棚には本書のほかにも当時サイバーパンクの枠で出版されたSFが何冊か詰まっていた。

 1980年代後半は私生活はおろか業務でもPCなぞ使っていなかった時代である。業務ではせいぜい簡単な表計算ができるワープロソフトをたまに使うぐらいで、見積書を作成するのも請求書を書くのも手書きという、「本来の意味での」カーボンコピーが主流であった。仕事を離れても先輩社員から貰ったMSX機でせいぜいゲームをしていたぐらいである。肉体と端末を接続して電脳空間に没入するなど想像の世界以外の何ものでもなかった。

 今や、と続けられるほど現在の電脳事情に詳しいわけではないが、職場でゴーグルを身につけメタバースの仕事をしている社員の姿が、『ニューロマンサー』で電脳空間で疾走する主人公たちの姿が40年経って現実社会と折り合ったもののように思えてならない。生成AIも徐々になくては不便な存在になってきている。どんなに奇想天外、ぶっ飛んだ設定であっても40年も経てば普通なことになってしまうのだろうか。

 最近はほとんどSFを読む機会がない。40年後にそういえば2020年頃こんなことを描いた小説があったよね?というものがあるのか、探してみようか。

ニューロマンサー〔新版〕 スプロール (ハヤカワ文庫SF)